越智 愛 の日常と〇〇

いつまでたってもイスタンブール 300万人を抱えるブロガーを目指す

JRとかの公共機関止まったらそれらに対してキレる人多すぎじゃない?

 

 

これ、本当に疑問。

 

昔っからずっと思ってる。

 

 

 

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まず、キレて何か物事が解決するのか?

という事がある。

 

あなたが電車を動かせと駅員にクレームを入れることで電車が動き始めるなら、

それはそれで良い判断だと思うし、怒鳴り散らせば良いと思う。

 

ただ、実際は無理でしょう。

すみません、と謝っている駅員を見るこちらの気持ちにもなってほしい。

もちろん止まった原因(整備不良とか不祥事とか)にもよるけれど、

どうしようもない自然災害や不慮の事故等で止まることだってあると思う。

 

それに対して、何とかしろ、早くしろ、と怒鳴ってどうなるというのか?

駅員だって止めたくて止めている訳では無いし、復旧に向けて対応中なわけだ。

そこに追い打ちをかける暇があるならば、さっさとドアだけ開けてもらって、

別の手段で会社に向かうしかない。

 

根底には「お金を出しているからこちらが客だ。だから言うことを聞くべきだ」

という考えがあるように思えてならないのだけれど。

個人的にはこの考え方は間違っていると思う。

 

 

お金を出すことでようやく、対等なのである。と思う。

 

レストランでもあるけれど、お金を出すからと言って偉そうに振舞うのと同じで

私たちは自分で料理ができないからお金を出すことによって、足りないスキルを埋めて、料理を求める。

レストラン側が初めから上なのである。

そこに、お金を払うことによって、レストラン側も料理をする。

「対価」という言葉があるようにお金を払うことによって、ようやく「対等」なのである。

 

「お金を払っているんだから、客の言うことを聞け」という言い分があるならば

「料理を作っているんだから、黙って飯を食え」と言うのと同じなのだ。

 

公共機関についてもこれと同じだと思っていて、乗車賃を払うことで対等なのだ。

金が無いなら歩け、という事だと思っている。

そもそも、交通手段を自身が持っていないためにお金を出して、公共機関を使わせてもらうのであるから、それに対して、不慮の出来事で止まってしまっても、

「それは仕方がない」と思わないといけないはずなのだ。

 

この状況で私たちは対等である。

 

対等だから、意見を言えないという事ではもちろんなく、「こういう改善をしてほしい」という要望はもちろん言うべきであるし、言えるものだと考える。

ただ、だからこそ偶然の事故に対しては誰もが平等だ。

どうしようもない。

 

お金を出すということが、何か特別な事のように思っている人が多いような気がする。

 

お金を払うということは、自分のできない能力を持つ相手、機関、団体に対して

「対等」になることができる、ただの手段である。それだけ。

 

 

「対等」であるだけなのに、必要以上、常識以上の要望を求めるのは間違っていると思うのである。

 

 

タイトルと違うような内容になったかもやけど、

そういう事である。

 

 

 

 

指摘する者の葛藤の常

 

 

この前、後輩が仕事でミスをしまして。

 

それをフォローするために色々と相談に乗ったり、手助けをしたんですね。

 

その後、なんとなくその案件が落ち着いて解決したっぽいのですが、

最終的にどうなったのか?という結果報告が後輩から自分に無かった訳です。

 

いつまで経っても報告に来ないので

「そう言えば、この前の件ってどうだったの?」

と、こちらから聞きに行きました。

「大丈夫でした。」

と、元気よく返事をしてくれたのですが、

「普通はさ、迷惑かけた先輩とか周りの人に、どういう結果になったか、

 自分からすぐ報告しに来るもんじゃないの?」

と、言ってしまった事がありました。

 

 

 

 

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「普通」という言葉を使うのがいかに難しく、安易に使いすぎるのは良くないか、

ということは以前も一度書きましたが、

それでもこの件の時は「普通」という言い方をしてしまいました。

 

とてつもなく反省すると共に、どうやって指導をすればよいのか、

頭を悩ませる日々です。

 

 

「普通はさ、迷惑かけた先輩とか周りの人にどういう結果になったか、

 すぐ報告しに来るもんじゃないの?」

 

こう言った後に、後輩は黙り込んでしまいました。

 

確かに自分からすれば、

迷惑をかけた先輩に報告に行くことや、

一緒に謝ってくれた課長にお礼を言うことは、

間違いなく「普通」のことだと思ってました。

こう言ったことは「マナー」であって、仕事がどうこうと言うよりも

人と人との付き合いとして「当然」の事だと思ってました。

 

ただ、彼女にとってはそうでは無かった訳です。

そこに悪気や悪意があるわけでは無く、ただそういうものだと。

つまり彼女にとっての「普通」を遂行したまでなわけです。

 

これに対して、

「それは社会人としておかしいから治すべきだ」

と、表面的に指摘するのは簡単な事だと思います。

 

 

果たして、言う側の人間は全ての事柄に対して

「普通」という先入観に捉われることなく、思考できているものでしょうか。

 

 

ちょっと話のベクトルが違うかもしれませんが

自分は会社行事が好きでは無いので、基本的には行かないのですが、

それが先輩からすると、

「飲み会の後にカラオケに行くのは「普通」だろ?」

「休みの日でも時間があれば課の為に働くだろ?」

と思っているかもしれません。

 

そうすると、相手の普通に合わせることができていないのは自分です。

ただ、自分に悪意があるとか、悪気が無いのは自分が一番わかってます。

「なぜ、行かないといけないんだろう?」

「なぜ、付き合わないといけないんだろう?」

 ただ単純な疑問です。

 

 

こういったことを自分自身が考えてしまう以上、

後輩に表面的に指導するのがいかに間違っていることか、考えて悩むわけです。

 

 

 

 

 

 

 

田舎育ちは承認欲求が弱いという暴論を考えてみる

 

 

FacebookTwitterよりもInstagramの登録者数が世界で一番多いらしい。

 

 

「どいつもこいつも承認欲求の塊かよ」

という意見がある一方で

「素敵なものを見つけた感動を共有したい」

という気持ちの人もいるので

何が良いとか悪いとかはどうでもいい話。

 

 

てか、アピールが気に入らないならフォロー外せよっていう話。

 

 

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タイトルに挙げたように、田舎育ちは承認欲求が弱いという暴論を考えてみる。

 

これだけだと意味不明な文章だと思うので整理すると

 

田舎育ち ⇒ (物理的に)自分の帰る場所がある人

承認欲求が弱い ⇒ 自己肯定を自分で得ることができる

 

 

と言うことが言いたい。

難しく書いたので逆に頭悪そうに思えるけどこういう事が言いたいのは

なんとなく伝わるでしょうか。

 

 

田舎で育ったので、家の前には川、裏は山、家の隣は畑、田んぼ。

先祖代々の墓が敷地内にあり、街灯が無いので夜は空が広いし、鹿や猿が作物を荒らしに来る。

最寄りのコンビニも駅も、車を使わないといけない。

家の周りは同じ苗字で友達の家が遠い。

 

そういう恵まれた環境で育ってきたので、一人で過ごす時間というのが多く、

飽きずに家の周りをずっと散歩したり、川遊びをしたり、墓の掃除をしたり、

草を刈ったり、溝掃除をしたり、農作業の手伝いをしたりと、

学校以外で他人と関わる機会が少なかった気がする。

 

というかそれで満足してしまってました。

 

家のまわりでぼーっとしてるのが一番楽しい。というような。

 

だから、誰かに認められるとか、そういう対象がそもそも無い。

ここに座って、流れる川と山の緑を見るだけで、

落ちる夕日と稲穂の上を飛ぶ赤とんぼを見るだけで、

墓石を洗いながらご先祖様に話しかけるだけで、

戻ってこれるというか、それで十分に

「ここは自分の場所だ」

と、自己肯定ができるような気がしている。

 

 

田舎育ちということに限らずとも、

自分の帰る場所がある人は承認欲求が弱いのでは無いかと思う。

 

「自分の帰る場所がある」ということは物理的に、と書いたけれど別に場所に限定しない。

 

例えば、没頭できる趣味があるとか、それだけで満足できるものがあるとか。

 

自分の機嫌を自分でとる、ということを芸能人の誰かが言っていたけど

そういうことのような気がする。

 

 

果たして。

 

 

 

 

 

やりたいことNo.137 平田オリザの舞台を観る

 

観てきました。

舞台「さよならだけが人生か」

 

 

www.seinendan.org

 

 

元々はこの舞台の作・演出を手掛けている平田オリザさんの名前だけ知っていて

実際に平田オリザさんの書いた作品

 

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

これを読んだのがきっかけでした。

この本、本当に面白いのでお勧めしたいです。色んな人に。

 

 

 

内容めっちゃ面白いんですけど、特にコミュニケーション能力とは何か?

と言うことを主題として話は進んでいきます。

が、コミュニケーション能力って聞いただけだと、

見知らぬ人の前でスラスラ話すとか、

誰に対しても臆せずに振舞うとか

そういう事をイメージすると思います。

もちろんそれもコミュニケーション能力として、人前で話すとか沢山の人と触れ合うと鍛えることができるとかそういう認識で間違ってはいないんだろうけど、それとは違った視点でコミュニケーション能力とはを語ってます。

 

 

 

その方法が舞台。シチュエーション。

 

 

 

分かりやすく言えば、会社でお偉いさんにプレゼンとかする時に

会社の役員室でプレゼンをするとめちゃめちゃに緊張するだろうけど

自分が良く行く馴染みのカフェとか、ライブハウスの中とか、

はたまた、スーツじゃなくて自分の普段着で音楽を聴きながらだとか、

そういったところだと緊張せずに普段の自分でいられるんじゃないの?ってこと。

 

 

 

 

つまり、実際に相手とのコミュニケーションの中で

その場所とか状況も大きな意味を持っているんではないの?

と言うことが書かれてます。

 

 

 

(もちろん、もっと深くコミュニケーションとは何かについて掘り下げられてますが、

 僕の理解力だとこれが限界です。)

 

 

 

と言うことはつまり

人とのコミュニケーションが苦手という人もいる中で相手と自分という2要素に

環境という第3要素をぶち込んだら一体何が起きるのか?

つまり第3要素によって

まだまだ色々な変化を起こせる可能性が残されているんじゃないか?

人為的なものでしかないと考えられていたコミュニケーションも、

別の要因で変革を起こせるんじゃないか?ってことが書かれてます。

 

 

コミュニケーションにおいて、その角度から変革を起こす

という考え方に衝撃を受けました。いや、ほんと。 

 

 

 

と、こんな風にこの本が面白過ぎたので、

その人が手掛ける舞台って一体どんなもんなんやろ?

と言うことで見てきたのがきっかけでございました。

 

 

 

 

舞台の内容は見てのお楽しみと言うことで。

観た方、ぜひ感想を語り合いましょう。

独特の世界観でした。笑

 

 

 

当たり前とは

 

 

当たり前のことを書いている記事とかブログとかが大学生の時と比べて大分目につくようになった気がするのは気のせいでしょうか。

 

やや物騒なニュースも多いこの頃。

 

社会人になったこの時期だからこそ、無意識のうちにそちらに自分のアンテナが向かっているかもしれないとも思う。

 

当たり前のことと言うのは河合隼雄さんの「心の処方箋」に書いてある。

ここで言う当たり前のことと言うのはそういう事を言っている。

 

 

何にせよ、当たり前のことすら教える必要があるというのは大きな問題であると思う。

この問題を河合さんは4年も前に言っているけれど、発展が進む世の中のどこか

そういった事を教える環境、

いや教えるということではなく

そこにあるのが当然という、

居るだけで慣れていく環境

というものが失われていっているのかも知れない。

 

言いたいことや伝えないといけないことと言うのは回りまわって、根っこの部分は同じままで進んでいくのかもしれません。

 

 

大事なのは「自分が譲れない部分」と「当たり前とは何か?」という部分の

バランスであると常々思います。

 

 

「普通に考えて」という枕詞

 

気が付いたら口から出てしまう言葉だと思うけれど、

改めて、使い方に気を付けたいと思う言葉の一つです。

 

普通って何?

 

というシンプルな疑問。

 

 

 

今までは普通だとか普通じゃないとか

そもそもそんなことを考えることすらしていなかったけれど

社会人になって一人の時間が増えたので余計に考えるようになりました。

 

 

本当ならば、もっと早くに気づかないといけないことであるし、

まぁ、気づけなかったから今こういう社会人をやっているのだと思うけれど。

 

 

誰もがそれぞれ同じような生き方をしているわけでは無いので

普通という言葉がそもそも何を表すのかってわかんない。

 

普通って、一人一人によって定義されるべき言葉であると思いますね。

 

全部が全部わかりやすければ「良い」のに、と思ったりすることもあります。

 

例えば、

じ‐しょ【辞書】

多数の語を集録し、一定の順序に配列して一つの集合体として、個々の語の意味・用法、またはその示す内容について記したもの。

みたいなね。

 

なんとなく、辞書って言われたら、あれのことやなって思い浮かぶものが

一致する可能性が「高い」と思うんですね。

一定の順序って言われても、なんとなくあいうえお順かなとか、思ったりね。

 

 

それが

ふ‐つう【普通】

[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。

 

こうですからね。

 

ごくありふれたものって何?

あたりまえってなに?

 

適当にネットの辞書で引っ張っただけだけれども

普通って何?ってなりますね。

 

 

だから、普通に考えて、っていう言葉を

使いすぎることはとても危険だと思っています。

 

 

普通に考えてね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人に対して腹を立てるほど優しくなれない

 

 

誰かに対して腹を立てて、それを感情や行動にのせて表現をするのは

とてもエネルギーのいることだと思う。

 

 

そのためか、他人に対して腹を立てるという感情を

最近はほとんど持ったことが無い。

 

 

その代わりに出てきた感情が「諦め」であると思う。

 

 

 

駅の改札で詰まってる人だとか、

ATMの前でめっちゃ時間かかってる人とか、

電車の列に割り込んでくる人だとか、

自分の事を棚に上げて指摘してくる人とか、

約束を全然守らない人だとか。

 

 

知人ではない赤の他人に対しては、腹を立てたところでどうしようもないし、

知人に関してはそういう事をする人なんだなと思って距離を置いてしまう。

 

 

 

なので、見知らぬ赤の他人に対しては別として、

知人に対して腹を立てた時に、

きちんと自分の思いを乗せて相手に対して自分の意見を言える人は、

相手に対してこうなってほしいという気持ちであったり、

自分のエネルギーを使ってまでも相手に熱意を伝える姿勢があるという意味で

とても優しいと思う。

 

  

 

こういう話を時々他人にすると、返事は様々であるのだけれど

色々な意見が返ってくる。

ただ、一つだけ挽回したいことがある。

それは「相手のことを馬鹿にしすぎている」と言われることに対してである。

 

金輪際、馬鹿にはしていない。

これは誓っていい。

 

 

「その考え方って自分の考えは相手に伝わらないからって、相手を見下している」と

言われたときは驚いた。

 

 

なぜ、自分の考えがわかってもらえないから諦めるという考え方相手を見下す

という発想になるのか。

 

 

恐らく

「その考え方って自分の考えは相手に伝わらないからって、

 (相手は自分の言うことが理解できる人物ではないと判断して)相手を見下している」

と言う事なのだと思うけれど。

 

 

 

相手にわかってもらえないということはつまり、

そもそも考え方が違うのだ、というただそれだけで終わりの話であって

それ以上でも以下でもない。

十人十色という言葉があるように多様性を認めて終わりの話だと思っている。

それを分かってもらうように説明をするほどのエネルギーは無いし、

優しくはないというただそれだけの話である。

 

 

 

 

 逆に

相手と話しさえすれば、自分の考えを伝えきれる、他人とは必ず分かり合える、

という様に考えることは傲慢であるとさえ思う。

 

 

 

 

  

ただ、相手にあまり期待しないとはいえ、きちんとダメージは受けている。